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掛軸販売専門店「掛軸倶楽部」について

掛軸倶楽部のご案内

「掛軸倶楽部」は株式会社トライアングルの掛軸販売部として運営しております。

掛軸倶楽部の「こだわり」は・・・

●品質の良い本物の掛軸をお求めやすい価格でご提供します。
●「お客様が安心してお買い物ができるお店」を目指します。
●「喜び」が生まれるサポートを心がけます


です。

弊社がお値打ちにお客様にご提供できる理由を挙げますと・・・

●商品の仕入れが必要な事業(在庫を抱える事業)をやっていない。
商品の仕入れをして、在庫として抱えなければいけない事業は、仕入れのためのお金と、仕入れた商品を保管・管理するためのお金が必要となります。しかも、仕入れた商品が売れない場合には、不良在庫となります。

しかし、弊社では、在庫を抱える事業を行っていません。

つまり、在庫を抱える事業を行っている会社より、圧倒的に低いコストしかかからず、また、在庫不足対策に大量の仕入れをする必要もないので、その分、お客様にお値打ちに商品を提供することができるのです。

●ショールームをもっていない。
展示経費やそれを補うための販売経費なども削減の一部につながります。
店舗販売にはそれ相応の経費や資金繰りが必要とされますが、その経費を削減、また立替金の負担がないのでお安くご提供できます。

●ネット以外の営業はしておりません。
ネット販売以外の営業はしておりません。できるだけ経費をかけず、このページを通じてご注文下さった方に、品質と価格において最大限のサービスをさせていただいております。(お客様のご希望により個別に営業する場合はございます。)


安心してお買い物ができるお店について

●到着して7日以内なら返品可能

高価な商品を安心して購入して頂く為、手にとってみて、届いた掛け軸がどうしてもお気に召さない場合、7日以内であれば返品を受け付け致します。(返品送料、各決済手数料、返金時の振込手数料は、お客様のご負担となります。)

●安心してお買い物ができる仕組みづくりをしています。
品物を実際に手に取って見れないネットショッピングは不安がつきもの。ましてや高価な商品ならなおさらです。
ネットショッピングの返品に関しては購入時には気がつかない落とし穴等も実際存在します。
その落とし穴を回避できるようお客様を誘導し、不安をできるだけぬぐい去りたいと思っております。


「喜び」が生まれるおつきあいについて

●「掛軸倶楽部」はお客様に商品を販売したあとも勿論、熟練の表具屋による修理、またお問い合わせ等のサポートをさせていただきます。

掛軸(掛け軸)のすすめ

●掛軸(掛け軸)とは
床の間がつくられるようになったのは鎌倉時代ですが、そこに仏画をかけ、香花を供えて仏壇代わりにしたのが始まりです。 室町時代になって、床の間は貴重品や愛玩物を飾るようになりました。
中国との貿易が盛んだったので、鑑賞品として宗元画の掛軸が多く輸入されました。又、茶華道が流行したので格好の鑑賞品として床の間を飾ることになりました。図柄は絵や文字などです。掛軸のためにかかれたものもあれば、古い歌の(絵)巻物などを切り取って作るものもありました。
●北画・南画
倭絵(やまとえ)の風景画が盛んであった南北朝(足利)時代に、当時明王朝時代の中国から禅と一緒に渡ってきました。禅宗が南北の二派に分かれていたから、描かれた絵も南北があったわけで、様式に大差はありません。
南画は北画より遅く、江戸時代中期から盛んになりました。
北画は、雪舟、狩野派によって大成されました。雪舟は中国で南画を学びましたが、帰国後、描線をよく使った北画様式を作りました。狩野正信は、足利将軍家の御用絵師ですが、雪舟の南画に日本的装飾を加え、狩野派といわれる豪快で装飾性の強い絵の始まりとなりました。桃山時代の華やかな壁画も北画から出ています。

南画は中国の桂林の山々にそっくりですが、日本の山水画の手本となっていました。
●水墨画
濃淡法や、陰影法で描かれた墨の絵。渋いが、時には色を使った絵よりも自然を感じさせます。
古代中国で生まれ、宋・元時代に発達しました。日本には鎌倉時代に輸入され始め、南北朝以降盛んになりました。禅が日本に入って、宗教面だけでなく貴族的な雰囲気によって人々に受け入れられました。そのことを良く示しているのが、禅僧が描いた水墨画です。この頃の水墨画は、北画・南画といわれるものでありました。
有名な画家は、雪舟、狩野派の人々、雪村、長谷川等伯、岩佐又兵衛、宮本武蔵(雅号ニ天)など。
●茶掛
茶事では、掛物が道具組の中心とされます。茶席に入って最初に拝見するのが床であり、道具組みの趣向に亭主の心入れを喜ぶものです。
書蹟と絵画です。書蹟には、墨蹟、一行、古筆、懐紙、色紙、短冊などがあります。
墨蹟とは、禅僧の書で、『南方録』にも記されているように、古来から茶席の第一の掛物。見どころは、巧拙ではなく、品格の高さを称美するものです。
掛軸はTPO(「Time(=時)」、「Place(=場所)」、「Ocasoin(=場合)」)に
あわせて使い分けます。
結婚・結納 高砂 ・松竹梅鶴亀 ・おしどり ・夫婦鯉
出 産 四君子 ・四季花 ・干支
節 句 立雛 ・武者・鐘馗(しょうき)・兜・昇鯉
開店・開業 七福神 ・赤富士 ・二福神
新築・落成 富峰 ・山水 ・四季花鳥
御 祝 山水 ・季節にあった花鳥
贈 答 富峰 ・山水 ・四季花鳥
仏事・法要・彼岸・お盆 十三佛 ・三尊佛 ・観音 ・六字名号
長 寿 高砂・松竹梅鶴亀 ・六瓢
お茶会・茶室 書 ・墨跡
正 月 富士・旭日 ・松竹梅鶴亀 ・天照皇大神
絵柄・書の知識については以下に移動してください。
風景 / 花鳥 / 動物 /  / 仏画・神 / 節句画

取扱作家(住職)紹介

掛軸倶楽部で扱っている作家一覧(掛け軸集印マクリ和額等)
以下が掛軸倶楽部で取扱っている作品の作家さん、住職さんです。
ほとんどの方がいろいろな形態の絵や書をかいていらっしゃるので、「この人ならコレ!」といった作品の紹介ができません。
左のページ検索欄に名前を打ち込むかコピペして検索していただくと、作品一覧が表示されます。
山水・花鳥等の作家
倉地邦彦 田中昭耀 藤沢寿峰 渡辺芳文 橋谷和樹 宮川雅秀
下條詩仙 大野文亀 川崎光則 石神蘭桂 鈴木秀湖 松尾蒼樹
川島正行 藤沢郷史 川島玉章 永田芳樹 月村華渓 伊藤文祥
小酒井桜谷 森 豊重 川島文珪 林 文耀 小森藤月 岩本青稜
川村和香 吉田萬華 衣笠玉関 中島清堂 杉山加選 滝山玉泉
井原史朗 今井玄花 大洞翠映 宮沢湖春 岩田東嶺 松村雄山
岱 招鳳 青柳北彩 橋谷和樹 石原章堂 佐々木愛日 岡田翠嶺
中野長春 堀口瑞鶴 野々村源景 林 昴月 北川晃道 永田芳樹
深山幽谷 岩本青稜 尾上晩翠 堀江伸一郎 藤田泰泉 恩田三澄
西川清信 岡本探泉 沢田岱湖 中川若翠 林 文美 河合比呂志
森 雪堂 加野秋谿 山口赤雨 堀 高泉 泉 素松堂 高木梅荘
川島正史 岩本栖堂 藤沢寿峰 石神直堂 小森春峰 伊藤薫風
片岡芳春
書(作家・住職)
小林太玄 足立泰道 荒木田守明 安田竹葉 山本真如 澤 宗津
大谷龍峰 五十川正導 五十谷羅山 飯尾東晃 服部廣陽 吉野智應
米崎直光 稲葉春邦 橋枝東観 祥誉常勇 田中昭道
仏画の作家
古田瑞洸 永田芳樹 川島玉峰 篠田清澄 岩本寿官 古田瑞洸
宮川雅秀 武藤晃龍 横山寿光 佐々木泰然 大西雲崖 長尾龍石
西川春容 非同順

風景画の掛け軸

●富士
日本を形作った神々は、長い年月をかけて、高い空から見下ろしながら、美しい一画を作り上げられた。それが富士と五湖の周辺である。南側には白砂西松の海岸を配して、富士山の裾野をより広く見せ、東側から北、さらに南側に山をめぐらせ、五湖の水の流れ出るのを防いでいる。そして、中腹以上は気高く雪で化粧させ、適当に雲をあしらって高く見せている。
描かれたのは鎌倉時代から。江戸時代には、人々の生活に浸透し、絵にもよく登場するようになった。「遠く見てよし近く見てよし富士の山」といわれるように、どこから見ても美しい。
●松島
本三景の一つ。宮城県中部、仙台湾の支湾、松島湾と沿岸一帯をいう。松島丘陵の南東部が沈下して内湾を作り、山頂、尾根が島や岬となって点在する。侵食で奇観を呈する島も多い。
●上高地
長野県南安曇郡安曇村。穂高岳、焼岳、霞沢岳などの高山に囲まれた小盆地。
海抜1500mで、亜高山帯の静寂な美と比類まれな山の品位があって、北アルプスの中心ともいえる。神聖な谷あいの秘境で、「神河内」とも書かれるが、古書は「上河内」が多く、上高地となった。

大正池
1915年、噴火した焼岳の泥流でできた、梓川のせき止め湖。0.1平方キロメートル。深さ6m、長さ1540m、幅257mあったが、上流からの土砂で、大きさが三分の一、貯水量は五分の一になった。
当時の名残をとどめる枯れた大木が林立した珍しい池で、林から焼岳の噴煙や残雪の穂高だけが望まれ、自然の妙に喚声を洩らさずにはいられない。
●安曇野
松本盆地の北西側、北アルプス山麓に広がる扇状平野。古代、出雲系の豪族安曇連(あずみのむらじ)が植民したので、今も南北安曇郡の地名がある。信州の穀倉地帯。
●斑鳩(いかるが)の里
奈良盆地の西北にあり、昔、大和川を利用して難波へ通じる交通の要所であった。
601年、聖徳太子が法隆寺を建てられた、日本最古の仏都である。明治政府は、推古美術の殿堂として保護した。その頃始まった法隆寺研究は、まだ定説がない。
法隆寺は、日本書紀に「670年、一屋も余すところなく焼亡した」と記される。昭和の大修理は、聖徳太子の創築として仰ぎたいという国民感情もあってなされた。
聖徳太子以来1300年の歳月が流れたが、今も平和な農村のたたずまいがある。最も古い寺々があり、白壁の民家、松の木、畦道がある。自然の古美術館であり、絶好の散歩道でもある。刈田と藁塚の間を歩く小春日和の冬もよい。

斑鳩の春
春の野辺といえば奈良盆地が代表である。日本文化が起こり、今も残るので、この野原が春になると人を郷愁に導く。
北には山城の境をなす奈良山があり、南吉野の山が霞んでいる。東は大和高原があり、西は河内との境をなす生駒山、金剛山地が連なる。ここに来ると春が輝く。麦畑の緑、菜の花の黄金色、桃畑の紅色。池や田圃の水が光り、飛鳥時代の塔が見えたり、雲雀の声が聞こえる。路傍には、レンゲ、スミレ、天人唐草が昔のままに咲き、歌人の心を悲しませる。

斑鳩の秋
「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」の詩情そのままの田園風景がある。緩やかに傾斜する台地に、矢田丘陵を背景として木の葉隠れに見える五重塔と白壁の集落がかもし出す景観は、展雅で明るく、天平の昔を逍遥する。
●日の出と海波
正月に掛ける。日本海側では、結納などお祝いの時、「蓬莱山」の代用とされる。

波濤
哮吼喧関、白湧き碧飜る。又は雲、雨となる、激浪怒濤は壮観で、茫として水波の緩く動く時は精美の極といわれ、古来より絵に多く描かれている。
葛飾北斎は、風を起こす波、淺き水、巻く波、滝、細工波、大波、川、打合せの波、海、高い波、うちまわす波、とう波、さざ波などを描き分けた。
●瀑布(滝)
轟きと大量の水の落ちる様子は壮観で、雄大であり、昔から描かれている。
絵柄・書の知識については以下に移動してください。
風景 / 花鳥 / 動物 /  / 仏画・神 / 節句画

花鳥画の掛け軸


花の美しさや鳥の愛らしさを詠じた歌は古くからあったが、絵や彫刻で表すことはなかった。
平安時代から、北宗画の影響で描かれるようになった。鎌倉時代には、かなり描かれたらしい。狩野派、雪舟などが描いた。四季の花鳥を同一画面に配列しているのは、平安時代からの倭絵が四季を描いているので、日本の花鳥画の特色といえる。彼らの濃彩画と並んで、淡彩や水墨の絵も作られた。風景画の内容をもったこれらの花鳥画は、小品で日本向きであった。桃山時代には、城の大建築に合わせて濃彩花鳥画が描かれた。
江戸時代も城の装飾画だったが、文治政策によって自由に鑑賞できるようになったので、花鳥画はいよいよ盛んになった。また、商工業者の上層部にも愛好されるようになった。本阿弥光悦や栄達、土佐派が、倭絵的な新様式で大画した。後に、尾形光琳と光琳派が出た。また、明・清の花鳥画を学んだ諸派は、写生主義と装飾性をうまく調和して、町人上層と文人に流行した。これが明治時代に引き継がれ、現在に至っている。

●四君子
もとは中国の画で、蘭、竹、梅、菊を描いたもの。君子の気品の高いのに喩え、陶淵明、王子猷らが愛賞した。一年中掛けられます。

●四季草花
四季の代表的な花を組み合わせたもので、一年中掛けられます。 

●松竹梅
松、竹は冬の寒さに耐えて緑を保ち、梅は厳寒の後に花を咲かせるので、古来より「歳寒の三友」と呼び、めでたいものとして画題にされている。
中国の金の時代に王澹游が描いた歳寒三友図、皇甫の松竹梅、元の時代にそれを題材にした張伯淳の詩があり、明になってこの三つが「歳寒三友」として文墨の間に流行した。これが賀意をもつようになったのは、蓬来思想と結びついたからであろう。


寒を凌ぎ春に先んじて開き、香りは花の中の君子のようであるところから、古来より好んで描かれる。白梅、紅梅、墨梅など。
竹松と並んで「歳寒三友」、らん、竹、菊と一緒にして「四君子」とする。


まっすぐで節のあるのが雅趣があると喜ばれる。文人書家の好むものであった。石を配して「竹石」、蘭を配して「らん竹」、人物を配しては「竹林と賢人」など。
竹に雀、竹に虎は古来より一種の習慣になっている画題である。


 百木の長で、万年の寿を保って、四季常に緑なので、長寿を祝うのに用いられる。

●四季花鳥
季節
牡丹、梅、ネザサ、椿 ウグイス、キンケイ、キビタキ、コウライウグイス、
ミヤマホオジロ、スズメ、シロセキレイ
柳、ヨシ、オモダカ、水蓮、トクサ、野ばら コサギ、ツバメ、カワセミ、シジュウカラ
楓、芙蓉、菊、リンドウ キジ、サンジャク、ノゴマ
椿、梅 タンチョウ、オシドリ、オナガ、ウグイス、キジバト、ヤマガラ

●花
季節
牡丹、藤、桜
初夏・夏 フトイ、花菖蒲、カキツバタ、アヤメ、水蓮、朝顔、紫陽花
芙蓉、薔薇
桔梗、リンドウ、萩、ススキ、菊、楓、オミナエシ
冬~早春 南天、梅、椿、水仙、福寿草、蘭、山茶花

●鳥
場所
ハト、キジバト、ツバメ、ツグミ、シジュウカラ、メジロ、ホオジロ、オナガ
草原 キジ、ノゴマ、ノビタキ、ウグイス、ウズラ、鶴
ヒレンジャク、サンコウチョウ、キビタキ、ヤマガラ、オオタカ、ゴジュウカラ、エナガ、アオジ、鷹
高い山 ルリビタキ、ヒガラ、コガラ
水辺 コサギ、マガン、マガモ、オシドリ、カワセミ、キセキレイ、ハクセキレイ

絵柄・書の知識については以下に移動してください。
風景 / 花鳥 / 動物 /  / 仏画・神 / 節句画



秋草に鶉 佐々木愛日(直筆)画像
秋草に鶉
佐々木愛日


竹に雀 尾上晩翠(直筆)画像
竹に雀
尾上晩翠

動物画の掛け軸

●鯉
古来より河魚の長として珍重される。
龍門の鯉は急流を登って龍になるの伝えから、出世魚として、瑞相祝賀の意で、絵に多く描かれてきた。

鯉の滝登り
中国の黄河上流にある龍門の急流は多くの魚が上れない。登った鯉は龍に化すという伝説がある。人の立身出世に喩えていう。「登龍門」は立身出世の関門。
●龍
中や地中に住み、空を飛び、雲や雨を起こし、稲妻を起こし放つ霊獣。頭は駝、角は鹿、眼は鬼、耳は牛、体は蛇、腹は蜃、鱗は鯉、爪は鷹、手は虎。81枚の鱗、足に5本の指、口辺に長いヒゲ、牙をもつ。
喉下に1枚逆鱗があり、触れると大層怒る。中国では帝を龍に喩え、王子が怒るのを「逆燐に触れる」といった。
中国では、鱗(りん)、鳳(ほう)、亀(き)と合わせて、四瑞(ずい)の一つとされ、仏教では八大龍王に分け、航海や雨乞の守護神とする。
わが国では、北宋の絵が伝わってからで、足利時代から絵に多く描かれた。飛龍、丸龍、雲龍、虎と共にして龍虎、龍と虎を対幅にしたものもある。江戸時代には、玉吸の龍、富士越えの龍なども描かれた。牧渓、陳所、能阿弥、雪村、劉祥、狩野派、俵屋宗達、円山応挙らが描いた。「画龍の名手」といわれた陳所翁の雲行雨施巻に描かれたものは、雨の日に披けば、絵の龍が雲を呼んで天に昇ったといわれる。
●虎
風に嘯く勇猛な姿は、武士の起こった足利末期から江戸初期に好まれた。猛虎、竹虎、龍虎などにして描く。

龍虎
中国の四神思想に基く。威力の象徴とされ、『易経』には「雲は龍に従い、風は虎に従う。聖人作りて万物現わる。」と、風雲の気を龍虎で表した。
戦国時代から江戸時代初めにかけて、絵は特に喜ばれた。
●猿
古来より画題となっている。動作、姿が人に似るため、昔話や伝説の主人公としても人気がある。
インドでは、古代から神聖視され、仏典にも聖なる猿の話は多く、石窟寺に彫られている。中央アジア経由で中国にもたらされ、古代から伝説が多い。唐代頃までは、テナガザルの系統が神秘化され、特に白猿は神仙にも喩えられた。宗代頃からは、猿にかわって猴(こう)が神秘的とされた。
中国奥地の山中に住む金糸猴は、美しい金毛や特異な容貌のために多くの伝説をもっている。孫悟空は猴の代表であるが、そのイメージには、猿やインドのハヌマットの要素も含まれる。
●鹿
各地の神社で神の使いとして大切にされているが、春日社の信仰では、神が御蓋(みかさ)山に影向(ようごう)された時の乗物といわれ、神鹿として丁重に扱われた。このような土地では、鹿は野生のまま養われ、住民になれていた。奈良公園、厳島神社、金華山神社が有名である。
七福神の寿老人と共にいるのは、1500歳といわれる道教の神鹿である。
●獅子
日本ではライオンと同義。中国の『漢書』では、西域伝来の動物とし、後世の注釈書では、虎や豹をも食うという「さんげい」とする。
 百獣の王といわれ、その威厳ある姿は、古代中近東で狩猟文などに好んで用いられた。前足を上げて立ち、尾を上げ口を開けて咆哮している形だが、法隆寺、正倉院にも同様の錦がある。
 「唐獅子」は、中国伝来の想像上の動物である。頭部、頸部、尾が火焔上状に渦巻く多くの毛に覆われ、胴、四肢に数個の文様がある。これは、九世紀に密教の曼陀羅図でもたらされた。
●海老
形が老人に似ているので長寿を祝い縁起物とされ、また甲骨類で脱殻するため、新しい生命の更新と見なされ、めでたいものとされる。
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書の掛け軸


●お題目
経の題で、経の本質が表現されているので重視される。 
題目を唱えることは、経全体を意味するとされ、これに南無をつけて唱えられる。南無は、梵語「ナマス」(屈するの意)の音写。帰依礼拝すると漢訳される。
日蓮が『法華経』の題目「妙法蓮華経」を強調してから盛んになった。

念仏
心で仏を念ずること。後、心で仏を思いつつ、口で名号(仏名)を唱える口唱念仏が盛んになり、これをいうようになった。

南無阿弥陀仏-浄土宗
阿弥陀仏に帰依するの意。浄土宗では、六字の名号といい、唱えると浄土に生まれられると説く。浄土真宗では、阿弥陀仏を救われた感謝の念で報恩の念仏であるとする。

南無妙法蓮華経-日蓮宗
法華経に帰依したてまつるの意。日蓮は、「妙法蓮華経」は、『法華経』に説かれた宇宙の真理を意味し、唱えれば宇宙の真理に入り、仏の境地を得られるとした。

南無大師遍照(じょう)金剛-真言宗
「大師」は、釈尊、偉大な師をいい、弘法大師の俗称でもある。「遍照金剛」は、大日如来の密教名、または空海の金剛名。

●六字名号

南無阿弥陀仏

浄土真宗で、時間の長短を問わず一心に唱えるならば、阿弥陀仏の願いにかなうので、悪人でも極楽浄土に生まれられるとする、六字の仏名。

南無釈迦牟尼仏
禅宗で用いる、釈迦に帰依するの意。釈迦は姓で牟尼は名前。

●円相
禅で、悟りの対象として描いた円。禅の第一義を示す手段として描く。衆生の心が、本性上まろやかで平等なことを象徴した。おおらかな欠けることのない、仏陀の自由、平等、無差別を表す。

●般若心経
法隆寺にある梵本(古代インド語で記された原本)が、世界最古といわれる。漢訳は八本あるが、唐の玄奘三蔵法師の訳が最も流布している。多くの宗派が用いている。
『大般若経』600巻の要約。観音菩薩が、弟子のために、執着から離れるところに空の境地が開け、一切空、この空中全て無所得ということを述べ、菩薩も仏も、この般若波羅密多によって無上正等菩提を得ると伝えられたものである。

●『正信偈(げ)』=『正信念仏偈』
浄土真宗の郷里と歴史を偈の形にまとめたもの。
「釈迦という偉大な聖者の教えに帰依し、過去の高僧方の解釈に触れることで、仏の恩の深遠なことに気づいて、深く信じるようになりました。」という親鸞の前書きの後に書かれている、120句よりなる偈分。経典ではないが、『教行信証』の要約を述べたもので、浄土真宗で『阿弥陀経』とともに読まれることが多い。

●禅語

清風払明月

「清風払明月 明月払清風」 清風明月を払い、明月清風を払うという五言対句の前句で、禅のことば。
主と客は相対的なものである。時、処、位に随って主となり、客となるにすぎない。秋の夜空の清らかな様子は、迷いを払いさった「空」である。

日々是好日

日々是好日  日々これ好日
風来樹点頭  風来たって樹点頭す
日新日々新  日に新た、日々に新なり

月日の良し悪しはない。良し悪しは自分の心であって、心が正しければ悪い日は一日もない筈で、毎日は良い日である。風が吹けば木の枝葉がなびくように、とらわれのない心のゆとりと行動が、日々を好ましい日にする。

松無古今色-松に古今の色無し
「松寿千年翠」「青松多寿色」「松風有清音」とともに、常住不変の永遠の心を唱えたもの。

白鶴舞老松-白鶴老松に舞う
幾百年もの樹齢で、みどりの変わらない老松に鶴が舞いあそぶ、というめでたい語。

佳気満高堂-佳気高堂に満つ
美しい良い気が、立派な家の座敷に満ちている、という様子を表した語。

無事是貴人-無事これ貴人
一切の妄念を排除すれば、心は常に清浄平穏。これが真の貴人である。

瑞烟呈福寿-瑞烟福寿を呈す
めでたい祥雲が幸福と長寿をあらわしている。

一期一会(いちごいちえ)
茶道用語。一生に一度の出会いをいう。 個々の茶会では繰り返すことがないから、主客が全心身を挙して茶を接待し、道を現成させねばならない。
一生に一度しか巡り会える機会がないものと心得て、何かとの出会いを大切にすべきであるという戒めのことば。

●漢詩

楓橋夜泊詩  張継作


月落鳥啼霜天満  月落ち 鳥啼いて 霜 天に満つ
江楓漁火対愁眠  江楓 漁火 愁眠に対する
姑蘇城外寒山寺  姑蘇城外の寒山寺
夜半鐘声到客船  夜半の鐘声 客船に到る

月は西の山に落ち、カラスは鳴き、冷たい霜の気配が夜空に満ち渡る。紅葉した川辺の楓、ちらちら燃える漁船の漁火、それらが旅愁に眠りやらぬ私の目にうつる。おりしも寒山寺から、夜半をつげる鐘の音が、旅寝する私の船にまで響いてきた。

偶成詩

少年易老学難成  少年老い易く 学成り難し
一寸光陰不可軽  一寸の光陰 軽んずべからず
未覚池塘春草夢  未だ覚めず 池塘春草の夢
階前梧葉巳秋声  階前の梧葉 巳に秋声

年をとるのは早いが学問を成就するのは難しい
わずかな時間も無駄にしてはならない
池の塘に春の若草が萌えるような夢がさめやらぬうちに
早くも庭の梧葉に秋風が吹いてきた。
少年時代を楽しむうち、早くも老境は迫ってくる。

絵柄・書の知識については以下に移動してください。
風景 / 花鳥 / 動物 /  / 仏画・神 / 節句画



無尽蔵
小林太玄


無事是貴人
足立泰道

神の掛け軸

●蓬莱山
中国の神仙思想から生まれた伝説で、当方の海上にある島の、仙人が住むという霊山。
蓬莱島は、遠くからは雲に見え、近づくと海の下になり、着いたと思うと風が吹いて遠ざかってしまうという。金銀で作られた宮殿があるといわれる。秦の始皇帝は、この島へ不老不死の薬を探しに行かせたという。
主に結納の時または正月、その他のお祝いの時に掛けられる。日本海側では「日の出と海波」が代用されることがある。
●天照皇大神
「天照(あまつ)る」は、そらで照るの敬語、天下をお治めになるの意。
日本神話の最高神で、太陽を象徴する女体神。大和朝廷の祖神なので、皇室の祖先とされる。
イザナギ、イザナミのニ神の間に生まれた長女で、神々の国高天原(たかまがはら)を治めていた。弟の一人は夜之食国(よるのおすくに)を治め、もう一人の弟はスサノオの命。孫のニニギの命は、天降(あまくだ)って、大和朝廷の祖先となった。
名は『日本書紀』では天照大神、『古事記』では天照大御神。伊勢神宮に祭られてからは、神明ともいわれた。各地の神明宮、神明社は分家の神社である。
●七福神
室町末頃、中国の思想と古来の俗信と仏教から生まれたものとみられる。神には二つの対立する面-「たたる」と「守護する」-が一つになった性格があると考えられていた。
幸運は人知を超えて神が人に与えてくれるものだと思われている。貧乏人が大金持ちになったりすることは、ある霊的な力が加わることによるというのが、福の神の存在を強くしている。
七福は『仁王経』の「七難即滅七福即生」にあやかったとされるが、七を聖数とする意識はかなり強かったからでもある。十九世紀初頭、七社めぐりがはやり出し、七福神詣では特に流行した。このことは、大都市に定着したことを物語っている。

宝船
七福神と金銀七宝、さんご、めのう、真珠などの宝物を満載する。
江戸時代、瑞相として庶民に喜ばれ、多く描かれた。のち、正月二日の初夢に用いられ、神社、寺で板行するようになった。

大黒天
インドの神。梵名はマハー=カーラ(偉大な黒い者)。もともとはシヴァの化身として暗黒と戦い、破壊を司る。
仏教に取り入れられた当時は、毘盧遮那(びるしゃな)仏の化身で、鬼神を降伏させる武神だった。現在残っている最古の像は、福岡県の観世音寺にある十、十一世紀作のものだが、表情は恐い。
日本には最澄がもたらしたとも、伝行大師だとも言われる。平安時代から施福神として寺院の厨房に祀られた。その頃の大黒天は、中国では金の袋を持った台所の神となって、当初のものよりずっと温和になっていた。
三宝(仏・法・僧)を守護し、飲食を満たす神の詰まった大きな袋をかつぎ、打ち出の小槌を持って、米俵の上に座っている。日本神話の大国主の命ではない。

恵比寿
「夷(えびす)」の字から、もとは関東から北海道までの海辺の異民族の神だったらしい。そのため、葦舟にのせて海に流されてから海の幸の神となった。
鎌倉時代から、東夷(あずまえびす)と呼ばれた鎌倉武士によって、市場の神として信仰された。中世から江戸時代に、商業の発展と共に信仰が盛んになった。
風折烏帽子(かざぼりえぼし)に狩衣(かりぎぬ)・指貫(さしぬき)姿で、左に鯛をかかえている。
一説には、彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)とされるが、釣り好きだったところから来ているのであろう。また、事代主(ことしろぬしの)命とする説もあるが、神話で出雲の三穂崎で釣りをしたところからできた説であろう。

毘沙門天
四天王の一つ、多聞(たもん)天。鎧・兜を着け、手に矛を持つ。仏法を守護し、敵をくじくが、福徳富貴の神とも考えられている。梵名はヴァイシュラマナ(広く遠く名の聞こえた者)。
四天王の場合には多聞天と呼ばれるが、第一の勢力を持って、他の三天王を従える。独立して信仰される場合は、毘沙門天と呼ばれる。
兜跋(とばつ)毘沙門天という異形の像があり、左手に宝塔を捧げ、右手に戟(げき)を持ち、ニ鬼を従えた地天の両手の上に立つ。

弁才天
「財」は誤り。妙音天とも呼ぶ美しい女神。梵名はサラスヴァティー(水に富む者)で、もとはインドの大河の神。インドのブラーフマナ神話の中で、学問、技芸、弁舌、知恵の神となった。ヒンズー教では、ブラフマン神の妻。
仏教に取り入れられ、長寿と福を授け、音楽と弁才を司り、財宝を蓄え、鎌倉時代以降作られた。有名な像は、江ノ島、鎌倉鶴ヶ岡八幡宮にある。鎌倉の銭洗い弁天など、水にゆかりのある信仰が多く、祠も水辺に多いのは、古代インドの河川神に由来するものである。古くは八臂だったが、後にニ臂になり、琵琶を手にするようになった。
天災地変を除滅する天部とされた。

福禄寿
もとは中国の道教の神。南極星の化身といわれる。福と禄(天から与えられる幸運)と寿を司る。あかざの杖を持ち、杖に経巻を結び、めでたい鶴と亀を従える。背が低く、頭が長いので、せいぜい四頭身位。ひげも長い。
鹿と霊芝と蝙蝠とをかいて福禄寿とする。鹿は音禄、蝠は福、令嗣は寿に通じる。令嗣の代わりに寿老人を描いたものもある。いずれも人世の至幸を数うるものにて、禄の尊ばれたのも封建時代の習わし。

寿老人
もとは中国の道教の神。長寿と知恵を司る。頭が長く、おかざの杖をつき、鹿を連れている。寿星の化身というのは星辰信仰に基づく。1500才の玄鹿を連れている。白髪が長く垂れ、身の丈三尺。
福禄寿と同神とする説もある。その場合は、代わりに吉祥天(毘沙門天の妃)を入れる。

布袋
中国の後梁時代、明州奉化県に生まれた。禅僧だったが、生活道具を入れた大きな袋をかついで乞うて歩いた。名は契此(かいし)。
徳は高く、占いで吉祥をピタリと当て、雪中に寝ても体が濡れなかった。いつも半裸でいて、太って腹が大きく、袋をかついでいる姿から、長汀子(ちょうていし)とか、布袋師と呼ばれた。物事にこだわらない大らか人柄が人々から尊敬を受けた。弥勒の化身と敬われ、日本に禅宗と共にもたらされた。
●鐘馗(しょうき)
『事物起源』によると、唐の玄宗皇帝が病臥した時、夢に一小鬼が現れ、香のうを盗んだり、玉笛を吹いてさわいだ。それを叱責すると大鬼が出てきて小鬼を捕らえ、目をえぐり、食い殺した。帝が何者かと聞くと、「終南山の進士、鐘馗」と答えたが、階段に触れて死んだ。皇帝が手厚く葬ってやると、鐘馗は「今後天下の妖魔を払いのけよう」と誓った。帝が夢から覚めると病気はすっかり回復していたという。帝は画家の呉道子に命じて、夢に見た姿を描かせた。それが鐘馗像だという。巨眼でひげが多く、いかめしい顔をして剣を持ち、黒い衣冠姿である。
中国では歳末に門戸に貼り、魔除けとした。日本でも五月の節句にこの像を飾って魔除けとする。
掛軸は虎と同様に無病息災を祈って年中掛けられます。
絵柄・書の知識については以下に移動してください。
風景 / 花鳥 / 動物 /  / 仏画・神 / 節句画
無尽蔵
小林太玄


無事是貴人
足立泰道

仏画の掛け軸

●仏教美術
1、原始小乗仏教美術・・・・シャカ関係の物語
2、大乗仏教美術・・・・・・如来及び如来を中心とした浄土世界
3、密教美術・・・・・・・・インドの神々を取り入れ、仏教的に表現したもの
4、浄土教美術・・・・・・・阿弥陀信仰による浄土や来迎の図
5、本地垂迹美術・・・・・・神仏習合によって考えられたもの
6、禅の境地を水墨画であらわしたもの

密教美術では仏だけを表現している。曼荼羅という理想的な世界の表現が中心。
※本地垂迹(すいじゃく)思想・・・「本地」は本身、「垂迹」は仏身で、仏教の仏、菩薩が日本の神となったとする思想。神の象徴の刀や鏡が御神体である神社に仏像があるのはこのため。八世紀に生まれ、十二世紀から流行した。
●曼荼羅(まんだら)
語源は梵語のマンダラで、本質を所有するものの意。多様な仏の調和ある統一世界のこと。密教では、万徳円満な仏の菩提心をいう。
八世紀末頃、仏教にヒンズー教の神が取り入れられてからは、神仏の集まりを図にしたものをいう。
密教では、浄土教と違って、理論を図式で象徴的に示している。大日経に基いた胎蔵界曼荼羅と、金剛頂経に基いた金剛界曼荼羅とがある。両界曼荼羅は、両図を対幅としたもので、真言密教の寺では東西に掛けられる。弘法大師が師の恵果から授けられて日本に持ち帰ったもの。
胎蔵界曼荼羅は大日如来の理法を表す。人は本来菩提心を持っているが、煩悩の中に隠されている。菩提心が母の胎のような大悲によって生育されるように、大日如来の理法が万物を包容するのを表現したもの。
胎蔵界曼荼羅図の源は、中国の石窟寺の壁画をはじめとする千仏。これを複雑にして、中心(大日如来)を大きく描くことで、諸仏が大日如来に統一されるという考えを表した。中心に八葉蓮華を描き、中央の蓮肉部に大日如来を描き、各葉に四仏、四菩薩を描く。四仏は、宝幢(ほうとう)、開敷華王(かいふけおう)、無量寿、天鼓雷音で、上下左右の葉に配される。四菩薩は、普賢、文殊、観音、弥勒である。この四仏は、金剛界曼荼羅の四仏と同じとされる。インドの各地法で、曼荼羅成立時に信仰されていたものとされる。
金剛界曼荼羅は、大日如来の智慧、悟りの知徳が堅固で、煩悩を砕くことを表す。
金剛界曼荼羅図は、(インド教との交流による)当時全く新しい形式の仏画であった。円と方形の組み合わせで、各仏は円の中に描かれる。九会(くえ)曼荼羅ともいわれ、九種類の曼荼羅図を三段にして、各段三図ずつ一画面にしてある。
浄土教では、観経曼荼羅。『観無量寿経』は阿弥陀の壮麗な浄土の状景を説いているが、それを描いたもの。浄土変相図ともいう。十三世紀中頃、横佩(よこはぎ)の大臣(おとど)の姫が作った織成(しょくせい。つづれおり)のものは、縁起絵巻にある。浄土曼荼羅は、極楽浄土で諸菩薩に説法する阿弥陀を中心に、菩薩、天人などが聴聞する様を、宝楼閣、宝樹、宝池などとともに描く。鎌倉時代以降多く描かれるようになった。
●阿弥陀三尊
脇侍(わきじ)は、向って右側が観音菩薩、左側が勢至(せいし)菩薩である。来迎図は、観音は両手で死者の霊を乗せる蓮台を胸のあたりに戴き、勢至は合掌している。往生した人を迎えに雲に乗ってくるので、両脇侍とも軽く膝を曲げるのが普通であるが、早(はや)来迎といって、早い雲で来る場合は、一段と腰を落としている。極端になると、両膝を折って殆ど正座に近い形(跪座)をとる。
平安中期、浄土信仰が広まるにつれて、阿弥陀が衆生を救うために聖衆(しょうじゅ)をひきつれて人の世に迎えに来るという阿弥陀来迎の有様が描かれるようになった。
●阿弥陀二十五菩薩来迎図
『十往生経』に説かれ、鎌倉中頃から信仰された。阿弥陀如来と以下の二十五菩薩である。

中央が阿弥陀如来。その向って右側が観音菩薩、左側が勢至菩薩である。他の菩薩は特定できないが、極楽浄土で阿弥陀仏を讃嘆供養する菩薩であり、来迎する阿弥陀に従う聖従(せいじゅう)でもある。奏楽や歌舞をして、いずれも飛雲に乗る。
 もとは密教仏であるこれらの菩薩は、浄土教の仏となって、人間的な親しみを感じさせるようになった。
菩薩名 菩薩名
観世音菩薩 14 光明王(こうみょうおう)菩薩
勢至菩薩 15 山海慧(さんかいえ)菩薩
薬王菩薩 16 巌王(けごんおう)菩薩
薬上菩薩 17 殊宝王(しゅほうおう)菩薩
普賢菩薩 18 月光王(がっこうおう)菩薩
法自在菩薩 19 日照王(にっしょうおう)菩薩
子吼(ししく)菩薩 20 三昧王(さんまおう)菩薩
陀羅尼(だらに)菩薩 21 定自在王(じょうじさいおう)菩薩
虚空蔵(こくぞう)菩薩 22 大自在王菩薩
10 徳蔵菩薩 23 白象王菩薩
11 宝蔵菩薩 24 威徳王菩薩
12 金蔵(こんぞう)菩薩 25 無辺身菩薩
13 金剛蔵菩薩
●釈迦三尊
脇侍は、一般には文殊菩薩(左)と普賢菩薩であるが、薬王・薬上ぼさつのものもある。
●十三仏
故人の法要でその冥福を祈る供養の本尊とされる十三体の仏、菩薩、明王。十王に三王を加えたもの。
不動明王  初七日 観音菩薩  百ヶ日
釈迦如来  二七日 勢至菩薩  一周忌
文殊菩薩  三七日 10 阿弥陀如来 三回忌
普賢菩薩  四七日 11 阿閃如来  七回忌
地蔵菩薩  五七日 12 大日如来  十三回忌
弥勒菩薩  六七日 13 虚空蔵菩薩 三十三回忌
薬師如来  七七日

如来
如は悟り、来は到来で、仏教の悟りの境地に達した最高の仏の意で、尊称。
四世紀後半頃、あらゆる如来は一つのもので、様々な如来は釈迦如来の力を各々表したものだと考えられた。
出家して、布施、持戒、忍辱、精進、静慮、知恵の六種の菩薩行をおさめ、悟りを開いた釈迦の姿をモデルとしたもの。髪を結わず、アクセサリーをつけず、一枚の袈裟を着ただけの簡素なスタイルが特徴である。ただし、その後定められた法衣の制に従って、上半身には、左肩から斜めに肩衣(けんい)を垂らし、下半身には裙衣(くんい)をつけ、これらの上に大衣(だいえ)をまとわれた。

菩薩
梵語はボディサッタ。仏陀の次の位。自ら成道を目指すとともに衆生を教化救済するために修行中の王族の姿。仏陀になる前の太子時代の釈迦。
その後、釈迦以外に多くの如来や菩薩が考え出された。特に、大衆仏教では、仏陀になるまでの経過を重視したので菩薩が多くでき、それぞれの菩薩が独立して信仰されるようになった。それぞれ師事する如来があり、その修行の度合いによって段階がある。最上位の菩薩は、次の段階で成道して仏陀となり、仏の位を補うものという意で、補処(ふしょ)の菩薩と呼ばれる。
髪を高く結い、宝冠を戴き、上半身は裸形で下半身は裙衣をつけており、頭飾、胸飾、腕釧(わんせい)、臂釧(ひせん)、瓔珞(ようらく)などの装身具を付けて、一般的に柔和な表情をしている。姿勢は直立の他、片足に重心をかけ、一方を少し出した形が多い。坐像では、あぐらのように足を組み、片足を上にした半跏趺坐(はんかふざ)が多い。

仏陀
真理に目覚めたもの、という意味の一般的な呼称。世尊ともいう。

不動明王
梵名はアシャラナータ。大日如来が、一切の悪を降すため忿怒相になったとされる。火焔で汚れを焚き浄め、衆生を守る。
右手に剣、左手に索を持ち、頭髪を結び、左肩に垂髪を下げる。左は半眼、右は大きく見開く姿もある。牙を出し、背中から火焔をあげ岩座に乗っている。

釈迦如来
名はシャカムニ。釈迦族の聖者の意。
この如来の目的は、自分が悟りを開くだけでなく、悩み苦しむ人々を一人残らず悟りの境地へ導くことである。
密教では、説法教化を具現した仏とされ、胎蔵界の天鼓(てんく)雷音如来、金剛界の不空成就如来のことである。
大衆を導く説法姿で描かれる。福々しく端正な顔、堂々とした体であるが、一枚の袈裟を着るだけの簡素な姿である。
偉大な聖者釈迦の一生は、常人を超えた事蹟に富んでいる。輪廻(りんね)思想によって、釈迦の前世にふさわしい本生譚(ほんじょうたん)が考えられ、やがて久遠常往の仏、釈迦如来とされた。
一生の主な歴史を釈迦八相とする。
1、誕生仏
2、樹下思惟
3、苦行
4、出山
5、成道
6、説法
7、涅槃
8、金棺出現

文殊菩薩
梵名はマンジュリ。知恵を司る。
インドのバラモンの子。『維摩(ゆいま)経』では、維摩居士が衆生の苦悩を背負って病んだとき、シャカの代わりに誰も見舞いに行かなかったが、文殊は訪ねて、法門について論議した。
旧訳の『華厳経』には、南方に行っていたが、更に南方に行くように善財童子に勧めたとある。しかし、文殊の浄土はもともと東方だったと『菩薩瓔珞経』などにある。
旧訳『華厳経』に、「清涼山に往する」とおり、中国の山西省五台山を中心とする文殊の信仰は、日本にも七世紀後半伝えられた。平安時代から天台宗、五台宗で五台山巡礼を目指した。密教では両界曼荼羅にある。
多くは獅子に乗っていて、姿は僧、童子、宝冠をかぶったもの、白蓮座にのるもの、孔雀にのったものなどがある。右手に剣、左手に経を持つことが多い。

普賢菩薩
梵名はサマタバダラ。
理、行、徳を司る。東方より白象に乗って法華経の信者を護るために来るといわれる。法華経が女人往生を説いたので、女性の信仰をよく集めた。華厳経や天台宗の法華三昧にも出ている。
密教では金剛薩捶(さった)という仏と合体され、普賢金剛菩薩という名の仏になっている。

地蔵菩薩
梵名はクシュティガルバー。
釈迦入滅後から弥勒が出現するまで、五濁(ごしょく)の世に住して姿を比丘に現わし、六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天)の衆生を教化救済する。人々を苦から脱させ、寿命を増すところから延命地蔵とも言われ、また、賽の河原で子供を救うので子安地蔵としても信仰される。
頭は僧形、右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に宝珠を持っている。

弥勒(みろく)菩薩
梵名はマイトレヤ(慈から生じたもの)。
釈迦入滅後、5億6700万年の後に出現するといわれている仏で、それまでの長い間、兜率天で、いかにして衆生を救おうかと思惟している姿をあらわしている。実在の釈迦の弟子であり、菩薩では第一といわれる。
法相宗では鼻祖とされている。金峯山(きんぶせん)がミロク下生の地であるとされるので、ミロク出現まで残そうとする埋経(土中に経典、仏具を埋蔵する)の流行した時期もある。死後、兜率浄土に生まれ、ミロクの化尊に預かろうとする信仰は、阿弥陀信仰より古く行われ、貞慶(じょうけい)、明恵(みょうえ)らによって鎌倉時代に説かれ、ミロク来迎図や兜率天曼荼羅も作られたが、阿弥陀信仰ほど一般化されずに終わった。
右手を頬に当て、台座に腰を下ろし、右足を垂らしている。

薬師如来
薬師瑠璃光如来。衆生を病苦や暗黒、災いから救い、安楽を与え、衣食を満たすなどの現世の利益、十二の誓願をたてた。
シャカ信仰より後の七世紀後半から信仰された。681年、天武天皇の皇后の病気平癒のため、寺建立を発願し、697年、持統天皇のとき薬師寺に像を置いた。
古くは諸仏通相の奨であったが、左手に薬壷をを持つようになった。
単独に作られる場合もあるが、日光・月光菩薩を脇侍とした薬師三尊として作られることが多い。

観音
梵語はアヴァロキティシュバラ。一般には聖観音をいう。旧訳では観世音、光世(こうぜ)音、唐代の訳では観自在。
「観音」は、世の音を観るの意。人々の声をはっきり見極める力を持ち、大慈大悲の徳があり、救いの求めに応じて三十三の姿になって現れ、教えを説いて苦難を救う。聖観音という名は、密教が生まれてから、十一面観音、千手観音などの変化(へんげ)観音菩薩が現れたので、区別するために、密教以前の根本の観音を示す。
一説に、西方極楽浄土に住し、阿弥陀如来の脇侍となり、教えを守るという。
宝冠に阿弥陀の化仏を頂き、天衣、裳をつけ、瓔珞を飾り、蓮華経にのる姿が多い。

勢至菩薩
観世音菩薩と並び、大きな力を持つ。智慧を表わす。行者は極楽往生を妨害する悪神悪鬼から護られるという。
姿は観音と似ているが、宝冠に宝瓶を置いている。独立して作られることは少ない。阿弥陀信仰とともに作られ始めた。

阿弥陀如来
梵名はアミダブバ。わが国では無量寺如来、不可思議光如来などと呼ばれる。この仏の光相が無量で、、十万にある国を隈なく照らし、また、この仏の寿命と、この仏の国に生まれた人の寿命が無量という意味である。また、分身を光仏として十二通りにもいうことがある。無量光、無辺光、無碍光、無対光、焔王光、清浄光、歓喜光、智恵光、不断光、難思光、無称光、超日月光で、いずれも仏の光、徳を讃めたたえたもの。
インド・中国・朝鮮を通じて日本に入ってきた。中国では、不老長寿の信仰と結びついて、北魏時代急速に広まった。わが国では、七世紀後半から信仰され、平安時代中頃、恵心僧都により力説された。
藤原時代には、世相の混乱が人々を不安にさせ、来世を救ってくれる仏が求められたので脚光を浴びた。鎌倉時代には、法然上人によって宗派となった。その浄土宗では、信じて名号を唱える者は功徳によって必ず極楽浄土に往生すると説かれ、その思想は親鸞や一遍に引継がれた。
阿弥陀信仰の特徴は、七仏(釈迦を含む)のような過去仏でも、彌勒仏のような未来仏でもなく、現在西方浄土に住するという点であり、四十八の発願をたて、大悲の救いをするとされる。
『無量寿経』では、インドの王族に生まれ、世自財仏に感化されて出家し、五劫の長い間思惟して四十八の願をたてたといわれる。五劫思惟の阿弥陀というのは、この修行中の姿である。

阿閃(あしゅく)如来
中国で後漢の時代、「阿閃仏国経」が漢訳された。それによると、大日如来のところで発願し、成仏して東方世界に住し、善快と名づけたその浄土で説法している。四方四仏としては東方の仏とされ、金剛界曼荼羅でも東方の日輪に描かれる。胎蔵界曼荼羅では、天鼓雷音如来と同一の本誓にあるとされる。
坐像では、左手で袈裟の端を持ち、右手は指を伸ばして地に付ける。金剛挙をした左手を臍前に置く場合もある。

大日如来
梵名はマハーヴァイロカーナ。密教では最高の仏とされる。その智慧の光明は日の神以上とされるので、大日如来という。
金剛界曼荼羅では、五仏宝冠を戴き、髪は肩に垂れる。瓔珞、環釧(かんせん)、天衣をつけた菩薩の形とする。蓮華座に坐し、智挙印を結ぶ。胎蔵界曼荼羅では、法界定印。
信仰は、空海の帰国とともに九世紀初めから。独立して作られることも多い。
金剛界五仏は、大日、阿閃、宝生、阿弥陀、不空成就を、胎蔵界五如来は、大日、宝幢、開敷華王、無量寿、天鼓雷音をいう。

虚空蔵菩薩
虚空蔵とは、智慧と慈悲の功徳が広大無辺で虚空のようだという意味。すべての妙法をもって衆生の求めに応じ、現在、未来の利益を得させるといわれる。また、鳥獣虫魚、あるいは諸天善神等に変身して種々の利益を授けるといわれる。
わが国には、718年、道慈律師が求聞持法(ぐもんじほう)をもつとして唐から招来した。善議、勤操(ごんぞう)、弘法大師も伝えた。弘法大師は、勤操から伝えられ、八世紀に真言密教を作った。

薬王菩薩/薬上菩薩
「観薬王薬上菩薩経」によると、もともと兄弟の長者で、兄の薬王菩薩(梵名バイシャ ジヤラージャ)は星宿光長者と号し、訶梨勒果(インドに産する樹果)と良薬を与えて衆生を救済する菩提心を発して菩薩と なった。弟の薬上菩薩(梵名バイシャジヤサムドガダ)は雷光明長者と号し、兄に従って良薬を持し、衆生を救う大きな誓願 を立てて菩薩になった。仏は「2菩薩がいずれ未来において成仏し、兄に浄眼如来、弟は浄蔵如来となるであろう」と、弥勒 菩薩に告げたという。

珠宝王菩薩
衆宝王菩薩ともいう

月光菩薩
「薬師本願経」で、薬師如来の脇侍。姿は定まってないが、手に月輪を持つ。上半身は裸形、月光遍照の菩薩。仏を助け、薬師の薬師の正法宝蔵を守る。

三昧王菩薩
念仏の衆生を擁護する。

大自在王(天女)
インドのシバ神が仏教に入れられ、摩醯首羅天(まけいしゅらてん)=大自在天となった。密教で重視する護法神で、十二天の伊舎那天ともいわれる。

大威徳王(明王)
五大明王のひとつで,西方を守護する。六足尊とも。
●だるま
?~528年。梵名ボディダルマ。中国名、達磨。
南インド、バラモン国王の第三子。大乗仏教を志して内外の経典に通じた。釈迦の弟子に、頭蛇行中第一と讃えられる摩訶迦葉(まかかしょう)という人がいたが、この人から禅法を伝えられた。後、辺地の布教を志して、ベトナム経由で北魏時代の中国に行き、崇山(すうざん)少林寺に住した。慧可(けいか)、道育のニ僧が師事して、中国の禅宗の基礎を作った。中国へ行ったのは60歳のときであるが、まだ禅が理解されていないことを知ると、少林寺で壁に向って座禅を組み、「面壁九年」の伝説ができた。
岩上に坐り、頭から赤い衣を被った像は、南宋時代のものだが、平安時代、禅と共に日本にきて、山梨県向厳寺にある。日本のだるま像に影響を与え、雪舟など多くの人々に描かれている。
九年も坐っていたので足がなくなってしまったに違いない、という無邪気な発想から、日本では江戸時代にだるま人形ができた。赤い色は子供の疱瘡除けになると喜ばれた。底に重みをつければ倒しても起き上がり、玩具として親しまれる。「七転び八起き」は、処世哲学として当を得たものである。絵は商売繁盛の縁起物ともされる。
●寒山拾得

唐の詩僧二人の名で、終生変わらない友情を持ち続けたといわれる。文殊、普賢の再生などとも伝えられる。両者を題材とした文芸、美術作品は多い。

寒 山
八~九世紀(唐)、伝説的人物。天台山の寒厳に隠棲し、樺の皮を冠とし、布裘(ふきゅう。布の衣)を着、木履をはいて、村落を歌唱して歩いた。
閭丘胤(りょぎゅういん)という人が、太守となり、評判をきいて訪れると、寒山は拾得と共に大笑し、饒舌を嘲った。寒厳に走って帰り、穴に入ったら、穴がふさがったという。詩は、禅宗で詩偈として読まれた。

拾 得(じゅっとく)
天台山国清寺の行者であったが、寒山と二人で国清寺に出入りし、衆僧の残食菜滓(さいし)を拾い、竹筒にたくわえて食糧とし、貧しい生活をした。時に寺中で叫声を発したり、唱歌諷誦(ふうしょう)したり、又廊下を漫歩したりして僧を困らせたという。
僧でも俗人でもなかったが、深く仏教の哲理に通じた。

寒山詩集
閭が、寒山の遺物として、樹や壁から詩三〇〇を集め、豊干(ふかん)と拾得(じゅっとく)の詩を加え、序を書いて出した。一説には、九~一〇世紀(唐末)にできた。
『三隠詩』又は『寒山詩集』といわれる。内容は多様で、民謡、自己の生涯、叙景詩、哲理詩、人の世の汚れを嘆じた箴言(しんげん)詩などがある。

●牧童-十牛
禅僧で、仏道修行の初めから、悟道・見性の境地に至るまでの過程を、牧童が牛を尋ねるところから家に戻るところまでの十項目に例えて示したもの。
尋牛、見跡、見牛、得牛、牧牛(ぼくご)、騎牛帰家、忘年存人、人牛倶忘、返本還源(げんげん)、入てん垂手。
牛年という干支に限らず、家内和平の祈願の為、年中掛けられます。
●御集印
四国八十八ヶ所 弘法大師にゆかりの深い、真言宗の寺々。四国を巡るように配置されている。この巡礼を特に遍路という。

発心の道場 ・・・ 1~23番
修業の道場 ・・・ 24~39番
菩提の道場 ・・・ 40~65番
涅槃の道場 ・・・ 66~88番

と、仏道修業の段階をたどるようになっている。1~88まで順に巡るのを「順打ち」、88~1と巡るのを「逆打ち」という。逆打ちをするのは、深刻な問題を抱え逆境にあえぐ人々だといわれるが、これを成し遂げたとき(結願)のご利益はひときわ大きいと信じられている。
30番の寺が二つあるのは、明治三年の神仏分離令によって阿弥陀如来像と大師像を別々に安置させたからである。

四国三十三ヶ所(近畿地方)
姫路の慶雲時の開祖、南室禅師が、江戸時代初め、四国八十八ヶ寺にならって、子女、老人でも容易に参詣できるよう、播磨を歩いた中から選んだ。本尊は観音。長谷寺、三井寺、竹生島の宝厳寺、谷汲山華厳寺(岐阜)が含まれる。
仏教の巡礼は江戸時代に最も盛んだった。観音霊場として坂東(関東)三十三ヶ所、秩父三十四ヶ所があるが、他にも六十六部、浄土宗四十八寺詣などがある。
●絵伝
祖師・高僧などの伝記を絵で表現したもので、文盲も教えを受けられた。
●川越名号
親鸞上人が流されて越後にすまれたとき、真宗とともに伝えられた七不思議とされるものの一つである。
直江・小俣川で、信徒が後を追い、「何か書き残してください」と頼んだ。上人が筆をもって「南無阿弥陀仏」と空に書かれると、川向こうで信徒の掲げた紙に字が書き上げられたという。亡くなった人が三途の川を渡る際、名号を唱えれば、橋がかかって無事に浄土に行けるという教えを喩えたものといわれる。
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風景 / 花鳥 / 動物 /  / 仏画・神 / 節句画
秋草に鶉 佐々木愛日(直筆)画像
秋草に鶉
佐々木愛日


竹に雀 尾上晩翠(直筆)画像
竹に雀
尾上晩翠

節句・故事・伝記の掛け軸

節句
●雛
三月節句に飾る。掛軸をかけることもある。雄雛は束帯、女雛は十二単を着け、雲上にあるように描くのが多いが、時代や土地によって様々である。
 桃の花や白酒、菱餅を供える雛祭りは公家から武家を経て庶民層に広がったものだが、室町時代に人形に胡粉を塗る技術が中国から入って普及した。
●武者
五月節句、端午の節句に菖蒲や蓬を軒にさし、鯉のぼり、武者人形や、武者、鍾馗の掛軸を飾る。五月節句に限らず、無病息災を願い年中掛けられます。
●山越阿弥陀三尊佛
転法輪印を結び西方浄土から阿弥陀如来が山を越えて往生者を迎えに来る図。
●石枕(親鸞上人)
柿崎の地で雪の中、宿泊を断られた聖人が戸外で夜半まで称名念仏をしておられる声が殊勝であったので、慳貧の夫婦も聞くに堪えられなくなり、家の中へ招いた。その夜、どんな悪人でも弥陀は決して救いから漏らしはしないと聖人に教勧された。夫婦は共に深い信心家になった。聖人はそこで歌われたとされる。
『柿崎にしぶしぶ宿をかりけるに、主の心 熱柿とぞなる。』
●救世観音
法隆寺夢殿の本尊で、世の中の病苦を除き、人々を救う観音様として、古くから秘仏として祀られ、明治17年、政府の依頼を受け古寺調査にあたった米国人フェノロサが、寺僧を説得して夢殿を開扉し、初めてその全容が明らかにされた。
本尊は樟の一本造りで、両肩に垂れる髪、袖先の先端、天衣の先端以外はほとんど丸彫りに近い作である。
像の全容は、金堂釈迦三尊佛の脇侍像に近い形制をもって表現され、金銅透彫りの宝冠の類を見ぬ素晴らしさといい、宝冠型光背の手の切れるような文様、意匠の彫り口といい、飛鳥時代を代表する作品の一つである。 
故事・伝記
●三保の松原
富士山の眺望に優れる名勝。静岡県清水市三保半島にある。清水港を抱くように発達した分岐砂嘴(し)で、砂丘に松林が続く。御穂神社や、その東南には羽衣伝説にまつわる<羽衣の松>がある。

羽衣
天女が羽衣を奪われて人間と結ばれたが、羽衣を取り戻して天上に立ち帰ったという伝説、昔話。松原に天人は、昔から画題にされる。
三保の松原が有名だが、他にも、天女が羽衣を掛けたといわれる羽衣松や羽衣石のある土地がある。多くの所では、天女は天に帰ったというが、天に帰らずに神に祭られた所もある。男が後を追い、巡り会ったとする所もある。中国地方以南では、二つの星になって七月七日の夜に会うといい、七夕と結びつけられている。一族の祖と関連させることもある。
●高砂
播磨灘に面した加古川河口で、松の名所である。
「高砂や、此浦舟に帆をあげて」と、謡曲が結婚式でうたわれる。紀貫之の『古今集』の序文に「高砂、住之江の松も相生いのように覚え」とある。また、能の代表にもなっている。いずれも、歌道に寄せて君が代を寿いだものである。
絵には、熊手を持った尉と箒を持つ姥とが落葉を掻くのを、相生いの松を背景に描く。
掛軸はお祝いや結婚式で掛けられます。
●一富士二鷹三茄子
夢、特に初夢に見ると縁起が良いとされるものを、順に並べてある。
江戸時代からのことばで、謂われは様々あるが、将軍家に縁深い駿河と関わるものが多い。
富士、鷹、(早生)茄子の名産を並べたとするもの、駿河で高いものを示すとするものもある。後者では、「鷹」は足高(愛鷹)山の俗称、「茄子」は初ナスの値段である。
一説には、徳川家康が戦いのため駿府に来た時、または鷹野に出た時、富士山が高大にそびえ、鷹が獲物をつかみ取るのを見て武運を感じ、茄子が道をはさんで連なるのを見て、「成す」「無駄花がない」のは縁起がよいと思ったからという。
●家康遺訓
・人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし、急ぐべからず。
・不自由を常と思へば不足なし。
・心に望みおこらば、困窮したる時を思い出すべし。
・堪忍は無事長久の基(もとい)。
・怒りは敵と思へ。
・勝つ事ばかり知りて負ける事を知らざれば、害その身に至る。
・己を責めて人を責むるな。
・及ばざるは過ぎたるに勝れり。人は唯身の程を知れ。
●俳句
草の戸も住み替る代ぞひなの家  芭蕉 『奥の細道』
わびしい草庵も、自分の後に人が移り住んで、雛祭りの衣、自分のような世捨て人とは違って雛を飾った家になっていることだ。

旅人と我が名よばれん初しぐれ  芭蕉 『笈の小文』
これから旅に出ると、「旅人」と呼ばれる身の上となる。おりから初しぐれの降る季節(冬)で、濡れながら旅をし、旅人と呼ばれるのは、自分の気持ちにふさわしく、本懐なことだ。

我が物と思えば軽し笠の雪
自分の利益となる負担であれば、それほど苦痛は感じないことをいう。
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