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掛け軸/掛け軸/禅語について

「禅語」とは、禅宗における先人達の言葉で、
茶の湯(茶道)にもよく使われます。
いままでに多くの人のこころに触れ、人のこころを動かしてきました。
このブログで「禅語」を少しずつこつこつと紹介してゆこうと思います。
「禅語」を通して、生きる智慧等を見つけれたら・・・
と思います。

第1回目は「あ」から「案山子(あんざんす)」を出そうとしましたが
これがまた難解・・・

なので「い」の「一期一会(いちごいちえ)」からはじめます。

井伊直弼(1815~1860)の『茶湯一会集』の序に
「此書は、茶湯一会之始終、主客の心得を委敷あらはす也、
故に題号を一会集といふ、猶、一会ニ深き主意あり、抑、
茶湯の交会は、一期一会といひて、たとへハ幾度おなじ
主客交会するとも、今日の会にふたゝひかへらさる事を思へハ、
実に我一世一度の会也、去るニより、主人ハ万事ニ心を配り、
聊も麁末のなきよう深切実意を尽くし、客ニも此会ニ
また逢ひかたき事を弁へ、亭主の趣向、
何壱つもおろかならぬを感心し、実意を以て交るへき也、
是を一期一会といふ」とあるのが出典とされる
「山上宗ニ」の「山上宗ニ記」には
「常の茶の湯なりとも、路地へ入るより出るまで、
一期に一度の会のように亭主を敬畏すべし、世間雑談、無用也。」
とある。「一期」は、人が生まれてから死ぬまでの一生の意。

一期一会(いちごいちえ)は、
「そのときに会う人とはもう今生では会うことがない、
それくらいの心持で真剣に相対することが大切だ」ということです。
「また会えるさ」と安易に考えるのではなくて、
「もうこの人とは二度と会う機会はない、これが最後なんだ」と思い、
その時間を大切にしようということです。

「茶会で一緒になるこの機会を大事に思おう」ということです。

たとえ何回も会う機会があるように思う人でも「これが最後かも
知れないと考え、そのときを大切に」ということです。 

禅語の書を先生や住職に書いていただき、それを表装して掛軸にできます。
書いていただける書家の先生、住職の方は諸事情により「
ホームページに表示できるのは数名
」なのですが、 実際はもっと沢山いらっしゃいます。

全て国内生産のオーダーメイドで掛軸や和額を作ることができます。

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・「サイズが大きすぎる(または床の間がないので掛けれない)」※小さい額か軸が欲しい
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などという要望もあると思います。

掛軸倶楽部では「一期一会」「円相」など、この先生に書いてもらいたい、
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書かれた書の表装も承ります。

是非「お問い合わせ」くださいませ。

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掛け軸/掛軸/禅語「案山子」

さて、前回やめてしまった案山子(あんざんす)について。

一般的に案山子は「かかし」

かかし(案山子)は田や畑などの中に設置して鳥などの害獣を追い払うための人形やそれに類するなんらかの仕掛けです。

語源を調べると・・・

かかしは、古くは髪の毛や魚の頭などを焼き、串にさして田畑に立てたものでした。

悪臭で鳥や獣を追い払っていたことから、これを「嗅がし(かがし)」と呼び、清音化されて「かかし」となった。
ただし、竹や藁で作った人形が使われるようになってからも、しばらくは「かがし」が用いられており、「かかし」という清音形は近世以降に関東地方から始まり、江戸時代後半に関西地方でも「かかし」が使われるようになった。
漢字の「案山子」は、元々中国の僧侶が用た言葉で、「案山」は山の中でも平らなところを意味し、「子」は人や人形のことです。

中国宋代の禅書『景得伝灯録』に「僧曰、不会、師曰、面前案山子、也不会」とあり、これにならって「かかし」の当て字に「案山子」が用いられるようになったと考えられます。



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掛け軸/掛軸/禅語「一日不作一日不食」(いちじつ なさざれば、いちじつ くらわず)

「一日作さざれば一日食らわず」という言葉は字面だけ読めば、一瞬、「働かざる者食うべからず」と思われるかもしれませんが、意味は全然違います。

これは、唐の時代の有名な禅僧百丈懐海(ひゃくじょうえかい)の言葉です。

『祖堂集』巻十四 百丈和尚に「師平生苦節高行、難以喩言。凡日給執勞、必先于衆。主事不忍,密收作具、而請息焉。師云、吾无?₩A争合勞于人。 師遍求作具、既不獲、而亦忘喰。故有一日不作、一日不食之言、流播寰宇矣。」(師、平生苦節高行にして喩を以て言うこと難し。凡そ日給の執労は必ず衆に先んず。主事忍びず、密かに作具を収めて、息わんことを請う。師云く、吾に徳なし。争でか合に人を労すべけんと。師、遍く作具を求め、既に獲ずして亦た喰することを忘ず。故に一日作さざれば一日食わずの言有りて、寰宇に流播せり。)とある。


「一日作さざれば一日食らわず」
 百丈が八十歳の時です。この高歳になっても百丈は日々の作務をしていました。
弟子たちは高齢のこの作務を見かねて師匠に、「作務をやめてください」と申し入れます。
 それでも聞き入れなかったので、作務ができないように、作務に必要な道具を隠してしまいます。そうなると、百丈は作務をしようにもできない。その日、百丈は食事をとらなかったのです。次の日も、その次の日も。それが三日も続いたので、弟子たちは師匠に、「なぜ食事を召し上がっていただけないのですか?」と尋ねました。
 そのときに百丈が答えた言葉が、「一日作さざれば一日食らわず」であったのです。
 そこで、弟子たちは師匠に非を詫びて道具を返しました。すると百丈はすぐに作務に出かけ、いつものように食事をしたということです。
      禅宗には「作務」と呼ばれるものがあります。作務は、「作業勤務」を約した言葉で、労働を意味します。作務は労働といっても、生活のためのものではありません。労働を通して、その生活が、そのまま仏法を行ずるように心がけることが大切なのです。
 掃除、草取り、水まきとお寺にいるといろいろな作務があります。雑用の仕事かもしれませんが、百丈に言わせれば雑用ではないのです。つまり禅宗においては、雑用と思えても、すべての作務が禅なのです。そう信じて作務をしなければならないというのが、禅の考え方ということです。
 もっと言えば、食べることも、寝ることも、休むことも、なにからなにまで禅でないことはないのです。百丈に言わせれば、生活がそのまま禅だと言うことです。このことを弟子たち、そしてわたしたちに教えたかったのではないでしょうか。

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掛け軸/掛軸/禅語「一無位真人」(いちむいしんにん)

『臨濟録』に「上堂云。赤肉團上有一無位真人。常從汝等諸人面門出入。未證據者看看。時有僧出問。如何是無位真人。師下禪床把住云。道道。其僧擬議。師托開云。無位真人是什麼乾屎�@。便歸方丈。」(上堂。云く、赤肉団上に一無位の真人あり。常に汝ら諸人の面門より出入す。未だ証拠せざる者は看よ看よ。時に僧あり、出でて問う、如何なるか是れ無位の真人。師、禅床を下りて把住して云く、道え道え。その僧、擬議す。師、托開して云く、無位の真人これ什麼の乾屎�@ぞ。便ち方丈に帰る。)とある。赤肉團(しゃくにくだん);生身の身体、肉体。面門(めんもん);口。『天台智者大師禪門口訣』に「面門者口也。」(面門は口なり。)とある。乾屎�@(木厥)(かんしけつ);糞掻きへら。『敕修百丈清規』に「入廁用籌分觸淨」(廁に入るに籌分を用い触浄す。籌は竹の棒。)とある。臨済禅師が上堂して言った。この肉体に一無位真人がいて、常にお前たちの口を出たり入ったりしている。まだ見届けていないものは見ろ見ろ。その時ひとりの僧が進み出て問うた。その無位真人とはなんですか。師は、席を下りて、僧の胸倉を掴んで言った。言え、言え。その僧は躊躇した。師は僧を突き放して、無位真人もこれでは糞かきべらではないかと言って、そのまま居間に帰った。


肉体的には肥えた人もあればやせた人もある。金持ちの家に生まれたのもおれば貧乏な家に生まれたのもおる。学校を出たとか出んとか、履歴がついておる。 この肉体の中にそういうことを一切離れた、無修無証、修行することもい らんが、悟りを開くこともいらん、生まれたまま、そのままで結構という 立派な主体性がある。


「無位」とは一切の立場や名誉・位をすっかり取り払い、何ものにもとらわれないということです。
そして「真人}とは真実の自己、すなわち真実の人間性のことです。

人はさまざまな問題に悩み、壁にぶつかったときに、はじめは他に原因があると考え、他を責めてしまいがちですが、それでは悩み苦しむ心は変わらず、心の平安はありません。
なんとかその苦しみから逃れようと、さらに自己を掘り下げて見つめていくと、悩みや苦しみの原因はすべて自分の中にあると気付くのです。

「ああ、これではいけない。自分はなんとつまらないことで思い悩んでいたのだろう。」
と気付いたその人が「一無位真人」。
つまり、なんの欲望も無く、貴賎、貧富、凡聖、男女、老若などの違いなど一切関係ない世界の中にある真実の人が「真人」であり、誰も皆、一人ずつそういった自分を持っているのですよ、そのことに気付きなさい、という禅の教えです。

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掛け軸/掛軸/禅語「一華開五葉(いっか ごようを ひらく)」

宗の初祖菩提達磨大師が慧可に伝えた伝法偈の中の一句と伝えられており「結果自然成」と対句を成しています。「吾れ本と茲の土に来たり、法を伝えて迷情を救う。一華五葉を開き、結果自然に成る」。深遠な佛法の真髄が込められた妙句であるが、一般には「開く」「成る」という言葉の連想から開運吉祥の語として古来多くの禅僧・禅者が書にしたためてきました。

一つの花がある。その花が五つの花びらを開いた、という意であるがこの花はあなたが生まれたときからあなた自身の深いところに咲いている花だ。もしあなたが「五つの花びら」の意味を知りたいのなら、道はたった一つ。禅を実践し、あなた自身が心の中を深く…深く…訪ねて、自分の力でもってその意味を体得するしかない。その行はあなたの心に美しさを与え、そしてあなたの人生を限りなく豊かにするに違いない。


一輪の花が五枚の花弁を開き、やがて実を結ぶ。自然のありのままの姿。何も気負いのない、美しくも自然体で力強い繁栄の象徴です。
五つの花びらとは五つの心のこと。以下のとおりです。

1、純粋で清らかな相手の心をありのまま受け取れる円満な智慧。
2、差別の意識を捨て、平等に拝める智慧。
3、差別でなく、平等の中での区別がこまやかに、確かに観察できる智慧。
4、他の人々のために行動できる智慧。
5、この世界は皆、仏の心の現われだと受け入れる素直な智慧。

茶禅一味と言うように、茶席の花は「一花五葉」を活けるといわれる。
茶花など茶席の花は単なる活け花でも、床の間の装飾でもなく、「心の華を開けよ」という教えでもあります。



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掛け軸/掛軸/禅語「一花開天下春(いっかひらいて てんかはるなり)」

『宏智禪師廣録』に「上堂云。一塵起大地收。一花開天下春。衲僧變態。須是恁麼始得。便乃一切時一切處。任運自在。應用無方。諸人還委悉麼。風行草偃。水到渠成。」(上堂して云う、一塵起って大地収まり、一花開いて天下春なり。衲僧変態。須く是れ恁麼始めて得るべし。すなわち一切の時、一切の処、運に任せ自在、応用無方。諸人また悉麼すや。風行けば草偃(のべふ)す。水到りて渠(みぞ)成る。)とある。『宗鏡録』卷第三十一に「如大集經云。不待莊嚴。了知諸法。以得一總得餘故。所以云。一葉落。天下秋。一塵起。大地收。一華開。天下春。一事寂。萬法真。則上根一覽。終不再疑。中下之機寧無方便。」(大集経に云う如く、莊嚴を待たず、諸法を了知す。以って一總を得、餘故を得る。ゆえに云うなり、一葉落ちて天下秋なり、一塵起って大地収まり、一華開いて天下春なり、一事は寂なれど万法真なり。則ち上根を一覽し、終に再疑せず。中下の機は寧ろ方便なからん。)とみえる。


一花開いて天下春なりとは、梅や桜の花が咲く春到来の喜びにとどまらず、
この句の背後には、
長い忍苦精進の果てに心の花が開いて悟りが開け、
世界を悟りの眼で眺めることのできた喜びがこめられている。


花が咲いたので辺りを見渡していると、満天下に春が到来していた。「一花開く」を心の花が開く、すなわち悟りが開けることと解釈すれば、解悟した人の目には山川草木全てが成仏していて、現実そのままが浄土である。


++++++++++++++ 小ネタ ++++++++++++++

日本の鉄道官僚の十河 信二(そごう しんじ、1884年4月14日 - 1981年10月3日)の座右の銘がこの「一花開天下春」
1973年に東海道新幹線の東京駅18・19番ホーム先端に東京駅新幹線建設記念碑が建立されたが、その碑には功績を讃えて、十河のレリーフと座右の銘である「一花開天下春」の文字が刻まれている。ちなみに、そのレリーフの自分の肖像を見た十河は一言、「似とらん」と言ったそうである。

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掛け軸/掛軸/禅語「一口吸盡西江水(いっくに きゅうじんす せいこうの みず)」

『�居士語録』に「居士後之江西參馬祖大師。問曰。不與萬法為侶者是什麼人。祖曰。待汝一口吸盡西江水即向汝道。士於言下頓領玄旨。遂呈偈。有心空及第句。」(居士、後の江西、馬祖大師に参じ、問うて曰く、万法と侶(とも)と為らざる是れなんびとぞ。祖曰く、汝の一口に西江の水を吸尽するを待ちて、即ち汝に向っていわん。士、言下に於いて頓し領玄旨を領す。遂に偈して、有心空及第の句を呈す。)とあり、『法演禪師語録』に「�居士問馬大師。不與萬法為侶是什麼人。大師云。待汝一口吸盡西江水。即向汝道。師云。一口吸盡西江水。洛陽牡丹新吐蕊。」(�居士、馬大師に問う。万法と侶(とも)と為らざる是れなんびとぞ。大師云く、汝の一口に西江の水を吸尽するを待ちて、即ち汝に向っていわん。師云う。西江の水を一口に吸尽すれば、洛陽の牡丹、新たに蕊を吐く。)とあり、『碧巌録』に「不與萬法為侶。是什麼人。祖云。待爾一口吸盡西江水。即向汝道。士豁然大悟。作頌云。十方同聚會。箇箇學無為。此是選佛場。心空及第歸。」(万法とともと為らざる是れなんびとぞ。祖云く。なんじが一口に西江の水を吸尽せんを待って、即ち汝に向かっていわん。士豁然として大悟し、頌を作って云く。十方同聚会。箇箇学無為。これは是れ選仏場。心空及第して帰ると。)とある。利休は古渓和尚に参じて、この「一口吸盡西江水」の語によって悟りを開いたという。 「松風供一啜」 と同じ境地という。


居士、馬大師に「万法と侶[とも]たらざるもの是れなんびとぞ」との問いに、「汝が一口に西江の水を吸盡せんを待って、即ち汝に向かっていわん」と大師が応えたとの故事があり、利休は古渓和尚に参じて、この「一口吸盡西江水」の語によって悟りを開いたといわれているそうです。

一切の存在を超越するような者とは何かとの問いに、西江(揚子江)の水を飲みつくことができるほどにならなければ、理解することはできないという、厳しい禅の教えです。



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掛け軸/掛軸/禅語「円相(えんそう)」

円い形、また、それを描くこと。無欠無余の、仏性、実相、真如、法性などと呼ばれる絶対の真理を現すという。一円相(いちえんそう)、円相図(えんそうず)などとも呼ばれる。『人天眼目』に「圓相因起 圓相之作。始於南陽忠國師。以授侍者耽源。源承讖記傳於仰山。遂目為?仰宗風。」とあり、六祖慧能の法嗣とされる南陽慧忠(~775)が最初に描いたとされ、耽源応真から仰山慧寂(807~883)に伝えられ、仰山が修行者を導く手段としてよく用いた。


円相(えんそう)は、禅における書画のひとつで、図形の丸(円形)を一筆で描いたもの。「一円相(いちえんそう)」「円相図(えんそうず)」などとも呼ばれる。
悟りや真理、仏性、宇宙全体などを円形で象徴的に表現したものとされるが、その解釈は見る人に任される。
また、円窓と書いて「己の心をうつす窓」という意味で用いられることもある。


こちらは掛軸倶楽部でも扱っております。
無尽蔵 小林太玄(直筆)


掛け軸/掛軸/禅語「風定花猶落(かぜさだまりてはななおおつ)」

宋の王安石(1021~1086)の集句詩に「風定花猶落、鳥啼山更幽」(風定まりて花なお落つ、鳥鳴きて山さらに幽か)とある。宋の沈括(しんかつ:1031~1095)の『夢溪筆談』(むけいひつだん)に「古人詩有、風定花猶落之句、以謂無人能對。王荊公以對、鳥鳴山更幽。鳥鳴山更幽、本宋王籍詩、元對、蝉噪林逾靜、鳥鳴山更幽、上下句只是一意、風定花猶落、鳥鳴山更幽、則上句乃靜中有動、下句動中有靜。荊公始為集句詩、多者至百韻、皆集合前人之句、語意對偶,往往親切、過於本詩。后人稍稍有效而為者。」(古人の詩に、風定まりて花なお落つ、の句あり、以って能く対する人なしと謂う。王荊公以って、鳥鳴きて山さらに幽か、と対す。鳥鳴きて山さらに幽か、もと宋の王籍の詩、もと、蝉噪ぎて林いよいよ静か、鳥鳴きて山さらに幽か、の対にして、上下句だだこれ一意。風定まりて花なお落ち、鳥鳴きて山さらに幽か、すなわち上句すなわち静中に動あり、下句、動中に静あり。荊公、始めて集句詩を為し、多なるものは百韻に至る、みな前人の句を集合し、語意を対偶するに、往往にして親切、本詩に過ぐる。后人稍稍效いて為す者あり。)とある。集句詩(しゅうくし);古人の詩を寄せ集めて、新しい一編の作品に作り上げたもの。對偶(たいぐう);対句。稍稍(しょうしょう);すこし。やや。少々。『北澗居簡禪師語録』に「上堂。舉玄沙問小塘長老。昨日一場鬧。向甚麼處去。小塘提起袈裟角。玄沙云。料掉沒交渉。師拈云。二大老。只知今日明日。不覺前秋後秋。北澗則不然。今日靜悄悄。昨日鬧啾啾。風定花猶落。鳥啼山更幽。」(上堂。挙す、玄沙、小塘長老に問う、昨日一場の鬧(さわ)ぎ、甚麼の処に向ってか去るや。小塘袈裟角を提起す。玄沙云う、料掉没交渉。師、拈じて云く、二大老、ただ今日明日を知り、前秋後秋を覚えず。北澗すなわち然らず。今日、静悄悄。昨日、鬧啾啾。風定まりて花なお落つ、鳥鳴きて山さらに幽か。)とある。


風定まって花猶落ち 鳥鳴いて山更に幽なり

風は吹きおさまっているのに、椿の花が落ちる。
静かな山中に響き渡る鳥の叫びの一声の後に来る静寂は寂寥感を感じさせ
一層山中の静かさをもたらすもの。
唐詩撰に代表するように唐代の創詩は多いのですが、次の宋代には創詩と共に
古人の句をつなぎ集めて、別の新しい詩にしてしまう遊びとしての集句という
ことが行われたのだそうです。
その集句の名人の王安石が古人の「風定まって花猶落ち」という句にまた他の人の
「鳥鳴いて山更に幽なり」という句をつなげ合わせて、これが元の句以上に味わい
深い句となり禅語として引用されてきた。
 風が全く無く静まりかえった庭先で、ぽとりと花が落ちます。
桜の花のようなぱらぱらでもひらひらでもなく、ぽとりというひとつの音が、
かえって静けさを気づかせ、静寂さを引き立たせます。
すべての動きが止まった単なる静けさではなく、静かさの中に穏やかな温もりと
時の動きを感じる静けさ。全くの無音状態が静かとは限らない。

無音は却って不気味さ不安さを感じさせ心穏やかならず、決して静寂さを
味わうことは出来ないものです。

掛け軸/掛軸/禅語「吟風一様松(かぜにぎんずいちようのまつ)」


松はみな同じように風に梢を鳴らしている。寒山の居する深山の様子を語ったもの。


『寒山詩』に「可笑寒山道、而無車馬蹤。聯溪難記曲、疊嶂不知重。泣露千般草、吟風一樣松。此時迷徑處、形問影何從。」(笑うべし寒山の道、しかも車馬の蹤なし。連渓曲を記し難く、畳嶂重を知らず。露に泣く千般の草、風に吟ず一様の松。この時迷径に迷う処、形は影に問う何れ従りかせんと。)とある。聯谿(れんけい);連なった谷。畳嶂(ちょうしょう);重なった高く険しい山峰。

この語は「吟風一様松」の語だけでも茶掛けとして珍重されます。
 語意は「寒山の山路にしげるさまざまな草は秋露に濡れて、あたかも涙をこぼして泣いているかのような物悲しさ表しているかのようだ。山路の大小の松は時に吹く風に颯々とした一様の妙音を奏でてかのようである」という意味で、これは寒山の自然の風光を歌ったものであると共に、禅の境涯での禅者、寒山自身の心境を表したものです。

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